同友にいがた vol.325[2014年10月号]

[輝く!新潟企業家]美しさは永遠に・・・喜びと幸せの感動づくり | 関原英里子さん(上越支部)有限会社京美容室 代表取締役

京美容室

京美容室は私の母が京都で美容師を始めたところが原点になります。そしてこの名前を受け継ぐということが、どんなに大きなことか最近になってわかったような気がします。この名前にどれだけ助けられたか、母の偉大さと歴史に感謝をしています。

同友にいがた vol.325私にとって母と娘の関係は、美容と私の関係になっています。生まれたときから母の美容室を見て育ちました。子守はお弟子さん達、家庭のことより仕事。結婚式の仕事が忙しいと、学校を休み手伝いに行かされ、知らない間に美容学校へ入学し、気が付くと美容師になっていました。

でも不思議です。同じことを私もやってきています。子供達の授業参観にも行かず、仕事が1番の生活にいつの間にかなっていました。

ふと、親子だなぁと思いました。「手に職」の母の教え に今は感謝をしています。その母も85歳になり、数年前から寝たきりの状態になりました。ある日、私が爪にネイルをしていたら、母もしたいということで、真っ赤なネイルをしてあげました。母はとても気に入ってくれ素敵な笑顔を見せてくれましたが、担当の医師には爪も病状を見る大事なところだからすぐに落としてくださいと叱られました。寝たきりになっても綺麗なものは好きなんだなぁと感じた場面でした。

同友会

新潟県中小企業家同友会2013年若手社員スタート研修同友会との出会いは、私が突っ走って仕事をしていた時に、大先輩の牧野さんから声を掛けていただいたのが始まりです。同友会での学びを深めるにつれ、母の美容と私の美容の経営に大きな違いが出てきました。

それは、美容業界にはなかった、良い労働環境を考えることです。徒弟制度が長かった美容業界では、福利厚生が整っていなく、拘束時間が長く、厳しい労働環境の中での仕事が当たり前になっていました。

同友会に入会し、他の企業の方々とお話ししていると、私の頭の中に???と沢山の疑問が出てきました。美容業界で当たり前になっていた労働環境は、他ではありえないことなんだと。だったら、弊社から、この業界の常識を変えていこうと奮起しました。会社のための勉強会、講習会は営業時間内に行い、講習費は会社負担、もちろん営業時間内なので、賃金は発生します。こんなことは、私が知っている美容業界ではあり得ないことでした。でも、こんなことから変えていかないと、これから美容師になりたい若者がいなくなってしまうと感じています。

より良い労働環境を目指して現在も改革中です。

京美グループ

現在、有限会社京美容室は、美容サロン2店舗、エステサロン1店舗、ブライダルを2会場で営業させて頂いております。全員女性です。そのうち子供がいるスタッフは3分の2です。女性が長く働ける会社を目指しています。

美容師という職業は拘束時間が長く、土日のお休みや連休などがなかなか取りにくい職業です。私も子供の頃、親と旅行をした記憶がなく、自分自身も親になって、子供の授業参観や運動会、文化祭など行事に参加しませんでした。ところが、子供達が大きくなったある日、「お母さんは仕事が一番で僕らのことはどうでもよかったんだよね」と言われました。確かに仕事が一番は当たっていました。でも子供の事はどうでもよくはありません。ですが、この状態はもしかしたら、私だけじゃなく、スタッフも家庭でそんな風に思われていたらこれは問題です。ただちに授業参観や行事に参加できるようにしました。

同友会での学びや、家庭での子供達の発言に、女性が働く事、働き続けるにはと考え、美容師が結婚、出産しても働ける職場づくりをしています。

地域との関わり

上越美魔女委員会「上越美魔女委員会」、なんだこれはという感じですよね。私が今取り組んでいる地域活性の活動です。40歳〜50歳代の美魔女?が 中心となって、上越地域の有形・無形のものを広く皆さんに知らせる活動です。上越という地域は食べ物も自然も豊富にある地域です。そして、この地域はお肌の美しい女性が多いのです。それは発酵食品が多いことと関係があります。

この美魔女になれる地域を出来るだけ多くの皆さんに知っていただき、この地域に来ていただくこと。上越美魔女委員会のオリジナル商品 をつくることを目指して頑張っています。

新幹線の開通もあとわずかとなりました。この機会を上越地域の発展に繋げていきたいと願っています。

フリーペーパー「POUGE(ポウジ)」また、もう一つ、結婚式に関するフリーペーパー「POUGE(ポウジ)」を6月に発行しました。

これは、ブライダルの仕事が大好きな私が感じていた危機感を何とかしたいという思いで発行しました。

近年、ブライダル業界では、結婚式をしないカップルが増えていることが問題になっています。昨年は婚姻数に対して結婚式を行った数が50%を切ってしまいました。「無し婚」が増えているということです。

一昔前は、花嫁は自宅でお支度をして、ご近所の方々からお祝いされて嫁入りをしました。

近所の小さな子供はその花嫁を見て、大きくなったらお嫁さんになりたいと言ったものです。しかし、現在の結婚式は、結婚式場に直接行ってお支度をするので、ご近所の方もいつ嫁に行ったのかわからないときがあります。小さな子供が花嫁を見ることが少なくなってきています。そうした、子ども達に花嫁を見てもらうこと、無し婚をせず、結婚式をしてもらうことを目的に制作していま す。未来の花嫁や近い将来の花嫁を応援する冊子です。

京美容室

上越美魔女委員会もフリーペーパーPOUGEもどちらも地域の活性を願い、何とか人口が減少しないようにとの願いがあります。私たち、美容業界は人がいないと成り立たない仕事です。どんなに機械化、電子化が進んでも、美容は「手」の仕事です。

人が住む地域づくりは、人を大切に考えなくてはならない私たち美容師がやらなくてはと思っています。

これからも京美容室は共に学び、共に成長し進んでいきます。

<有限会社京美容室 関原英里子(上越支部)記>


企業進化論(19) 〜 企業の歴史ストーリー 〜

昭和23年創業、今年で創業67年 経営との葛藤

成り行き任せの経営(1)

弊社の創業者である私の父は、昭和2年生まれ。87歳を迎えた現在も健在で、気候のいい季節には月に4、5回ゴルフに興じています。昭和22年、20歳の父が土木業を起業することになったきっかけは、警察官だった祖父を助け7人の弟妹を養うためでした。

さて、当時はもっぱら『人力』に頼る時代。小さな会社に重機は皆無です。父はゼネコンの下請けで公共の土木構造物(橋や水路)の基礎杭を打ち込む鳶職人の頭として働いていました。原動機付きのウインチと呼ばれる機械で、ワイヤに付けた重しをドラムに巻いては落下させ、松の木杭を土中に打ち込むのが主な仕事です。

公共工事において今も昔も変わらないのが、季節による繁忙期の偏りです。そこで閑散期には農地の基盤整備などもやるようになりました。今であれば、バックホーという重機で田んぼの畦(あぜ)を作っていくのですが、当時はこれもほとんどが人力・手仕事でした。若い衆が『こまわり』というノルマ制で豪腕を競いながら畦つけをしていたのです。若い衆は兼業農家の人たちです。稲の刈り取りを終えた秋から春にかけての半年間で、家族の1年分の食い扶持を稼ぐ強者も大勢いました。

余談になりますが、この頃、50年から60年ほど前の時代では、気温が30℃を超えると一切の仕事をせずのんびりと休養していたそうです。納期に急かされて炎天下でも仕事をせざるを得ない昨今と比べると、何とも羨ましい時代のように思えます。

成り行き任せの経営(2)

企業進化論(株式会社佐久間組)1970年代になると、弊社のような小さな企業でも一気に機械化が進みました。ゼネコンの仕事ではありますが、出雲崎海岸バイパス護岸工事、燕三条間新幹線橋台工事、中ノ口川頭首工工事などの大型工事に携わり、一時は30人規模の職人を抱える大所帯に。順風満帆と思われましたが、1970年代後半にはオイルショックの影響で物価高騰、資材納入遅れが頻繁に起こり、経営難に陥りました。この時期を転換期と見定めた父は、ゼネコンの下請け一辺倒の経営から、元請け工事受注主体の経営に切り替えるべく、地元豊栄市で動き出します。

一方そのころ私は、大学で土木工学を学んでいました。子守唄の替わりに職人の歌を聞きながら育った私です。物心がついた頃には右手にノコギリ・左手には垂木を持ち、遊びと言ったら犬小屋をつくったりイスをつくったり。学友たちには「将来お前の家は俺が建ててやるぜ!」なんて公言をしていました。将来建設業界で働くことに何の疑問も持たずにそのためだけの勉強をしていました。そして1978年、父の会社である佐久間組に入社し、筋金入りの建設バカの仲間入りを果たします。私の建設業人生は、ここから始まりました。翌年には生涯の伴侶と結婚し、4人の子どもたちに恵まれることになりますが、試練はここからでした。

企業進化論(株式会社佐久間組)

1987年、元請け比率が20?30%の会社にはなったものの、営業力も経営指針もない小企業の経営環境は厳しく、資材置き場の整理に明け暮れる日々が数ヶ月間も続きました。結果、社員全員解雇という非常事態。当時の社員には本当に迷惑をかけました。誰も居なくなった事務所の隅で、申し訳ない気持ちと今後の不安に悶々とした時を過ごしました。

リストラ断行から5ヶ月、ようやく心の靄が晴れたのは、ある社労士さんの言葉がきっかけでした。「今は建設業の7割が赤字。良くなるもならないも、経営者の気持ちとやる気次第じゃないの?」...辛いのは自分だけじゃない、自分が佐久間組を建て直してこれまで苦労を掛けた人たちに笑顔を取り戻してやるんだ!と決断。父は、「お前がやりたかったらやれ」の一言を最後に、経営の一線から退きました。

私と妻、弟、そして新人1名、たった4人での再スタートでした。妻は幼子を背負いながら手伝ってくれ、コンクリートをきれいに均すために深夜1時2時までがむしゃらに仕事をしたこともありました。時流が後押しをしてくれたおかげで、気付けば元請け比率が50%を超える会社になっていました。

成り行き任せの経営(3)

企業進化論(株式会社佐久間組)

2000年頃まで経営は順調に見えましたが、中身は結局成り行き経営のままでした。幸運だったのは、人生の師であるJCの先輩の勧めで、1994年、新潟同友会に入会できたことです。同友会では経営者として様々なことを学び、1999年、2000年と2年続けて経営指針を作成しました。しかし恥ずかしながら社員との共有どころではなく、机の引き出しに眠ったままでした。そして2002年、またしても経営環境の悪化でリストラ断行...。

土木業界だけの受注に不安が募り建築業界へ参入しましたが、右も左もわからず、コンサルティング会社に頼りきったことで、経営は良くなるどころか益々悪化。2008年には新築受注8棟に至りましたが、財務内容は火の車でした。見かねたメインバンクから毎月『6ヶ月先までの資金繰り表の提出』を要求され、これまで足元しか見ていなかった経営から目線を上げて少し先を見据えた経営ができるようになり、少しずつ財務内容が改善していきました。元来楽天的な性格のため、2013年、調子に乗って経営計画発表会を開催しましたが、経営者のぶれた姿勢が露見し、社員から不満・不安が噴出、信頼も失墜。ようやく自己改善に目覚めることになります。

経営者の責任

自分なりの経営指針書で、独自の経営をしてみたい。このもっともらしい誘惑に駆られ、大切な社員を何度も不安に陥れてきました。その悪の誘惑を断ち切る術は『真似ること』でした。

これは今現在進行中の取り組みですが、思い切って先人の経営方針をどんどん真似てみています。それを社員と共有するため朝礼での読み合わせを行い、学ぶことの意義をことあるごとに社員に説き、勉強会を毎週継続してやり続けています。まだまだ社員との意識のズレは感じますが、何よりも自分が良い方向に変化している実感があることが嬉しいのです。一生懸命やるということと経営者の責任は違うということをやっと理解できました。社員の成長できる経営環境を創ることこそ経営者の責任です。本物の経営を見つけ出す道のりはまだまだ遠いですが、同友会は私のような非力な経営者を導いてくれる導師であると感じています。

明日の佐久間組

今年新たに『私たちは、建設産業を担う多能工集団を目指します』というビジョンを掲げました。単に色々な仕事ができてムダがないというだけでなく、他の工種を経験することで自分の新しい才能を発掘できたり、お互いに仕事を助け合うことでチームワークが向上したり、自分だけではわからなかった危険や問題に気付けたり...という効果を狙っています。この多能工社員の育成を通じて、自主的に行動する社員集団ができることが、弊社の継続・成長に不可欠だと考えています。このビジョンの元に方向性を一致させ、社員一人ひとりが幸せで健康な生活のできる経営環境を目指していきます。

最後に、60歳にしてようやく同友会運動と会社経営が両立する体験を楽しめるようになったことに、心より感謝いたします。

<株式会社佐久間組 佐久間将(新潟支部)記>

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